大阪生まれの不器用男が北海道で写真を撮影する何故
【My Story】
episode:9 海外の様な北海道、移住への決断
妻から北海道移住の希望を聞きましたが、仕事の事を考えると現実的に考えてそれは不可能だと説得を試みます。
しかし妻の意思が固く9月下旬になった頃に、その時妻がお世話になっていたニセコへ説得に向かいます。
北海道は函館と定山渓に、昔旅行で一度行った事があるだけで、初めてのニセコです。
新千歳空港から直行しても3時間以上電車に揺られる事になり、途中小樽駅を経由します。
初めての小樽駅は古いながらも綺麗に掃除されていて、沢山のガラス造りの美しい電灯がキラキラと輝いていました。それからまた更に電車に揺られようやくニセコ駅に到着します。
初めてのニセコ駅は、沢山のオレンジ色の大きいお化けカボチャが飾られていて、まるで海外の様な雰囲気でした。
久々に再開した長女はこれまでの体調不良が嘘のように、とても元気よく走り回っていて、元気に過ごしている姿を見て安心します。長男も2か月でかなり大きくなっています。
そしてお世話になっているニセコの家庭に向かいます。北海道の9月は下旬になれば夜はかなり寒く、気候の違いにも驚きます。初めてみる北国の家庭、何もかもが大きく東京とは桁違いのスケールの景色、まるで富士山のように佇む羊蹄山。
大自然に囲まれてのびのびと過ごす子供たちや妻を見て安心するものの、私には東京に戻り家族で暮らす為、妻を説得するという責務がありました。
お互いの仕事の事を考えても北海道の移住は現実的には難しい事や、もし妻と家族だけ北海道で暮らし、私が東京で仕事というのも、子供たちの年齢を考えると難しい事、ましてや私はその頃チーフフォトグラファーに任命されてわずか数か月、フォトスクールでは代表講師まで任されるようになっていて、それを放り投げて北海道に移住など考えられない事を告げます。
ですが妻の意思は固く、「私達だけでも北海道に移住する」という事になります。
途方にくれながら東京へ戻る帰り道、ニセコ駅で私を見送ってくれる家族の姿を見て、「仕事と家族のどちらを取る?」ともう一人の自分がつぶやくのです。
そして元気よく見送る長女の姿を見て「かっこいいお父さん」はどっちを選ぶだろうと考えます。
自分の仕事が順調だからと言って、もしこのまま私が無理やり妻を説得して無理やり家族を東京に連れ戻し、もし長女の病気が悪化したらそれは「かっこいいお父さん」なのか。
様々なことを自問自答します。人脈がゼロの状態から始まった東京生活でようやく地盤を固めつつあった時期に、またゼロから北海道に移住?頭が混乱してパニック状態になります。
ニセコから9時間近くかけて、ようやく東京の灯りの消えた誰もいない家に戻り、人けのない部屋に座り込みます。
数時間前まで一緒にいた愛おしい家族の姿はそこにはなく、溜まらずテレビを付けて、テレビから流れる人の声を聞きます。
どういう訳かその時に「家族はどんな時も一緒にいなきゃだめだ」と思い、北海道への移住を決意します。
何のための人生なのか、誰のための人生なのか。それは人それぞれだと思うのですが、当時二人の子供を持つ父親になっていたので、私は家族と過ごす人生を選択します。
これをどのようにして会社に伝えるのか。頭の中の整理が追いつきません。
しかし実は会社には札幌にも店舗があり、妻からは移動を会社に相談してみてはどうかと言われていました。
その事は私も少し頭をよぎっていたのですが、東京の店舗にも札幌の店舗にも両方に多大な迷惑をかけてしまうことが容易に想像できたため、あまり考えないようにしていました。
しかし見知らぬ土地で必要なカメラ機材もないまま、いきなりフリーランスで家族4人を養う事はあまりにも無謀と判断し、札幌店への異動のお願いを東京の店舗の店長、副店長に相談をします。
予想通りではありましたが、二人とも「は?正気?」となります。しかしそれは当然の応対で、もし私が逆の立場であったらそうなっていたと思います。
長女の体調の問題を説明し、私がしどろもどろで何を言っているか分からなかったと思いますが、原発事故の影響もあるかもしれないと病院に告げられたことも正直に話します。
しかしそんな事を正直に話されたところで、当時の世相では原発事故の事を口に出すのは頭がおかしい人という風潮で、店長も副店長もこの話をどうやって処理するか、大変混乱したと思います。
私自身もまだ半信半疑のところもありましたし、慣れ親しんできた東京を離れる事が想像できず、心のどこかで僕の意見を否定し、僕の事を説得して欲しいとさえ願っていました。
ですが私の意見は、そのまま会社の上部に持ち上げられます。
会社の上部としても、札幌の店舗に「東京店のチーフフォトグラファーが家庭の都合で札幌に異動します」と伝えたところで、札幌の店舗から「は?なんで?」と言われるのは目に見えている訳です。結局私が札幌に異動できるかどうかの判断が降りるのに、それから5か月弱かかります。
妻と子供たちは私を待たずして先に北海道に引っ越しをし、私はもぬけの殻になった東京の家で、正にミカンの段ボール箱をテーブルにして過ごす日々に突入します。
その年の12月に一度家族が暮らす札幌のマンションに行ったのですが、初めて見る札幌の冬の景色は想像以上で、路肩に積みあがる雪山の高さに度肝を抜かれました。
そして「本当に自分はこんなところに住むのか」と意気消沈したのを覚えています。
また東京に戻った後、異動出来るかどうか分からない日々の中、私が東京店からいなくなる事を想定しないまま日々は過ぎていきます。
急かすことも出来ないまま年を越し、ようやく2014年の2月に入り異動の許可がようやく降ります。裏では様々な駆け引きがあったことが容易に想像され、ここで迷惑を掛けてしまった皆様には今でも頭が上がりません。
そして移住へのタイミングが1か月を切っている状態で、東京のスタッフに札幌店への異動を告げます。当然、スタッフはみな目が点になっていて、店舗には衝撃が走ります。
あまりにも急で、引き継ぎを行う時間もほとんどありません。
その頃には私は東京の家を引き払って、永福町にあるマンスリーマンションへ引っ越しをします。3月1日から札幌への移住が決まっていた為、東京でお世話になった方々への挨拶が間に合わず、東京のバンド仲間にも話す事が出来ないまま、私は嵐のように東京を去る事になります。
東京での1年目、孤独と絶望を味わった日々、バンド活動で苦しみながら過ごした日々、長女の誕生と写真家への転身、忙しいながらも写真家としての成長の日々、次男の誕生と北海道の移住。様々な思い出が頭の中をぐるぐる周り、整理が全く追いつかないまま、うず高く雪が積み上がる真冬の北海道の地に降り立ったのです。